OB座談会/甲子園初出場の思い出を語る

第11期(1978年/昭和53年度)
伊藤祐司 加藤徹
佐藤憲二 関 豊(旧姓・斎藤)

鶴岡東高校の記念すべき甲子園初出場は、校名が「鶴商学園」だった1978年(昭和53年)の夏。チームはレギュラーの多くを2年生が占める若い選手構成。県内では夏前の下馬評もそれほど高くなく、周囲は「甲子園を狙うなら翌年」と見ていた。そんななか快進撃を果たした理由はどこにあるのか? 当時の3年生4人に語ってもらった。

甲子園へ行くなんて
誰も想像していなかった

——みなさんは入学にあたり「甲子園へ行くぞ!」という強い気持ちがありましたか?


関:あまりなかったかなあ。私は生まれが飽海だったから、鶴商という学校自体、それほどわからなかったし。


伊藤:昭和48年に準優勝しているから強いというイメージはあったよ。


佐藤:当時、タテジマのユニフォームが鶴商だけで「かっこいいな」って思っていた。


加藤:私も兄に鶴商野球部の友人がいたから、ある程度、強いイメージはあった。でも監督(田中英則監督)が、あんな厳しいとまでは知らなくて(笑)。


——入部してびっくり。


伊藤:みんなそうじゃない? えらいところに入っちゃったって。


加藤:先輩たちも体が大きいしスピードもすごい。


関:レベルが全く違った。


加藤:「オレはこんなに上手くはなれない」って感じたなあ。


——それでも結果的にみなさんが初めての甲子園を決めることになる。


関:うん。でも当時は私たちの代が甲子園に行くなんて誰も想像していなかったと思うよ。


加藤:大型選手もいないし。


佐藤:初出場の話はさ、一つ下の代に聞いた方がいいんじゃない?(笑)3年生といっても、レギュラーは2人だけだったわけだし。


関:このメンバーで勝てるなんて誰も思っていないよね。一方で2年生は「3年計画」と集められて入学してきた選手たちだからモノが違う。監督は「3年計画」と口にしなかったけど、周囲の雰囲気でなんとなくみんな感じていた。君島(厚志)なんて東北一のピッチャーなんて騒がれていたし。


加藤:下級生なのに体つきから違ったもんね。

主将としてチームをまとめた関豊。


——それだけ下級生が目立ったり「3年計画、3年計画」といわれたら、上級生としてはおもしろくない、「ムカつく」みたいな気持ちはなかったのでしょうか。


加藤:ないない!


関:なかったね。


佐藤:オレもないなー。


伊藤:ない。


関:当時のコーチにも「お前たちには期待していない」なんて言われたりしてね。私たちの反骨心を煽るためだったのだろうけど、冷静に力を考えれば認めざるをえない、という気持ちだった。


加藤:実力は実力だから。


佐藤:オレたちの代、みんな優しかったしな(笑)。


関:だからね、レギュラーはほとんど下級生なのに、3年生と2年生の仲は良かったのよ。オレなんて「あいつらがノビノビやれるように」なんて考えていたくらい。「もう下のヤツらの力になろうかな」と思って。


加藤:でも、あいつらは私たちがそんなふうに考えていたこと、何も気にしていなかったんじゃないかな(笑)。


伊藤:そんな気はする(笑)。


——下級生中心でも「退部しよう」とはならなかった?


佐藤:そうだね。途中で投げ出すのが嫌だったから。


関:意地。


加藤:そういう気持ちは強かったなあ。


伊藤:男らしくないというか。


——なるほど。もしかしたら、甲子園はめげずにがんばったご褒美だったのかもしれませんね。


関:そう言ってもらえるとうれしいね。下級生だけではなく、我々は1つ上の先輩たちも強かった。そんな「谷間の世代」の自分たちが甲子園初出場というのも不思議なものだね。

数少ない3年生レギュラーだった加藤徹。

無欲で勝ち取った優勝
喜びに沸く鶴岡への帰還

——実際、甲子園で出られるとは考えていなかった?


関:私たちの甲子園は無欲よ無欲。無欲の勝利以外の何ものでもない。


佐藤:その通り。


関:スコア見てみなよ、全部1点差よ。


伊藤:いい意味でプレッシャーなし。大会前の下馬評も低かったし。


加藤:ヤマは準決勝の日大山形戦だったかなあ。


伊藤:私は3回戦の高畠戦が、8回まで負けてて「もう終わるかな」って思った。


関:うん、私も高畠戦が一番苦しかったよ。唯一、先制された試合。これに勝って勢いがついた気がするな。甲子園に出る時って必ずこういう試練があるのよ。


——そして決勝は米沢商。春の県大会で敗れた相手です。


伊藤:米商のプレッシャーがまたすごくてね。「置賜から初の甲子園だ!」って。一方、オレらはノーマークからの決勝進出。


関:これがまたからくりがあって。米商には好調だった今井という右のエースがいたんだけど、私らは春、控えのサウスポーに負けていたから、米商はまたその左を出してきたんだね。でも、私らも春とは違うから。それで試合前にフッと監督と目が合ったんだけど「行ける」「打てる」と思って2人とも頷いて。不思議なんだけど「絶対に勝てる」と思ったんだよね。それで実際にゲームも先制、ダメ押しと理想的だった。

ユーモアを交えて回想してくれた佐藤憲二。


——鶴岡から初の甲子園。当時は優勝パレードもあったそうですね。


関:すごかったなあ。山形から帰ってきて、鶴岡に入る前、三川橋でジープに乗り換えて。何千人ではなく数万人の方が出迎えてくれた。


伊藤:駅前から銀座通り通って市役所まで。大騒ぎだった。


加藤:私の小学校の時の担任の先生なんか自転車で追いかけてきて。


——市民のみなさんも大喜びだったんですね。


関:鶴岡市では柏戸が横綱になったとき以来のパレードだって聞きました。


伊藤:パレードなんて、昭和通りの花笠パレードくらいの時代だったしね。

大勢の人に見送られて鶴岡駅から甲子園へ出発。

もう少し涼しければ……
慣れない環境との戦い

——甲子園の印象は?


加藤:すり鉢状の球場だから歓声がすごい。ただ、観客席も大きいからかグラウンドは狭く感じたな。


佐藤:イメージより狭かったね。


関:ただ、試合は短かったな。気がついたら終わっていた感じ。でも大会6日目だったから、結局12日間も大阪にいた。


伊藤:試合時間は短いけど滞在時間は長い(笑)。


関:今、思い返すとそれもあって集中力が散漫になっていたのかな、ずっとフワフワしていた感じだった。


——無欲、勢いで勝ち上がってきただけに、甲子園の試合までにワンクッションできてしまったのがよくなかったのかもしれませんね。


加藤:君島も肩が痛くて真っすぐだけみたいな状態だったし。


関:そうそう、県大会は暑さを感じなかったけど、大阪はとにかく暑かった。


伊藤:今で言う猛暑の年。暑すぎてセミが木から落ちた、ってニュースを新聞で読んだ記憶がある。


関:もう少し涼しかったら、また結果は違ったかもしれない。


佐藤:しかも前の試合が長くて、待たされて。


伊藤:ウチ、一塁側ベンチだったけど、試合の時間帯、ずっと直射日光が当たるんだよね。三塁側はずっと日陰。逆だったらよかったのに、と思うことがある。

甲子園を鮮明に記憶していた伊藤祐司。


——最後になぜ、甲子園に出場できたか、ご自身が考える原動力を教えていただけますか?


加藤:とにかく欲がなかったこと。無欲。


伊藤:そもそもまだ甲子園に出たことがないから、よくわかっていなかったし。


関:野球部にいること自体、続かないと思ったもんね、最初は。


加藤:我々の甲子園なんてマンガみたいなものよ、マンガ。


——プレッシャーがなく、実力がある下級生ものびのびプレーできた、といったところでしょうか。


関:ただ、田中監督には「県内でも屈指の野球を知っている人だ」という安心感はあったなあ。


加藤:日大山形の渋谷監督とも仲よくてな。


関:学校側も室内練習場をつくってくれたり。当時あんなに本格的な室内練習場は県内でも珍しかったでしょ。当時のウチはいろいろと先を行っていたと思う。それらも確実に自信にはなっていた。


佐藤:「おいおい、せっかくの雨の日が……」と思いつつだけど。


一同:笑


加藤:まあ、根性つくような厳しい練習ばっかりだったもんなあ。


関:そういったことも含めて、私たち自体は弱かったかもしれないけど「県内で一番野球を知っている人と練習をしている」という自信もいい方向に働いたんじゃないかな。

「ずっとフワフワしている感じだった」と振り返る初の甲子園。

この座談会で興味深かったのは、関さんたち3年生が、実力で優る2年生を「生意気だ」「気に入らない」などと邪険にしたり、あるいはヘンに拗ねたりしなかった点である。それどころか「のびのびプレーさせてあげよう」と、そういう雰囲気をチーム内につくろうと心がけていた。また、そう思わずとも生来の性格から自然とそうなった人もいた。結果的に過度に厳しい上下関係はないチームなった。語弊があるかもしれないが、1970年代の高校野球において、これはなかなか珍しいケースだろう。甲子園初出場は、そんな3年生に野球の神様が最後の最後、ご褒美をあげたのではないか。そんな気持ちにもなった座談会であった。