OB座談会/「野球はハート」を植えつけた坂元世代、最後の選手たち

第33期(2000年/平成12年度)
黒坂裕  庄司祐輔 清野勉
土門佳裕 中沢一斗 的場裕典 吉宮秀行

1981年夏から2011年夏まで、甲子園を逃し続けてしまった鶴岡東。その苦しい時代に復活への道筋をつけ、現在の佐藤俊監督にチームを託したのが坂元広光監督だ。第33期の選手たちは、鶴商学園から鶴岡東に校名が変わった初めての夏、そして坂元監督にとって最後の夏を戦った選手たち。節目にして過渡期を過ごした選手たちに、当時を振り返ってもらった。

「鶴商学園」の校名で戦った最後の世代でもある33期。

中学時代と生活が一変
とにかく厳しかった練習

————みなさんは甲子園から10年以上遠ざかってしまった時期に入学した世代ですが、どんな動機で進学を決めたのでしょうか?


庄司:私は家も中学も鶴商から近かったので、タテジマのユニホームへの憧れが昔からありました。


中沢:鶴岡出身のメンバーは、中学時代に選抜チームでハワイ遠征に行っているから、それも大きかったのでは。庄司と黒坂も選ばれているでしょ。


黒坂:みんなで鶴商に行こう、という話にはなったかも。当時の鶴商は甲子園からは遠ざかっていたけど、1つ上の世代に知っている選手が多くて、みんな上手かったんですよ。


————確かに1つ上、32期は3年の春に県準優勝、夏は8年振りに準決勝進出。復活の兆しが出てきた頃かもしれません。


中沢:私は酒田出身で、当時、市内には甲子園に出場し始めた酒田南がありました。でも、中学時代に耳にした坂元広光監督の「練習はウソをつかない」という言葉がすごく印象に残って。それもあって鶴商への進学を決めました。


————苦しんでいた鶴商学園を鍛え直したのが坂元監督なのかもしれません。坂元監督はどのような指導者でしたか?


庄司:とにかく練習が厳しい。覚悟して入部しましたが、それでも中学とのギャップを感じました。


吉宮:1年生の夏休みは休みが1日もなかった。関西遠征に行き、夜に帰ってきてすぐ次の日も練習。


中沢:入学して生活が一気に変わりました。私と土門は酒田から電車で通っていたので、朝1時間かけて登校して、夜も夜8時を過ぎてから、また電車で1時間。


土門:3年の夏前は練習に熱が入ると「特急いなほ」の最終に乗れば夜11時でも帰れるぞ、みたいなことを言われたり(笑)。


中沢:最初の頃は鶴岡勢とケンカもしたなあ。「電車組は早く帰れていいなあ」なんて言われて「うるせえ! 家が近いお前らに電車通いの面倒さがわかってたまるか!」と言い返したり……今思うと我ながらくだらない(笑)。


清野:まあ、でも裏表無しでぶつかっていたのは、後々を考えれば自分たちのいいところだったかもしれないけどね。


庄司:そんな言い争いが起こるほど練習が厳しかったということ。野球の考え方や求められる技術やスピードの違いも圧倒的でした。

下級生の頃から投手陣の一角として登板をしてい庄司祐輔。エースながら主将も務めた。


————一番思い出に残るキツい練習は?


的場:山。


清野:山かな?


土門:山。


————「山」とは金峰山?


庄司:はい。金峰山ランニングです。高坂のグラウンドからスタートして、黄金小学校の奥を曲がり山へ向かって登っていくんですが、そのあたりから坂元先生がクルマで追いかけてくるんですよ。


清野:当時は高速道路がまだ出来ていないからクルマの近づいてくる音が聞こえてくる(笑)。


黒坂:宮崎ナンバー、ワインレッドのスターレット(笑)。


的場:手を抜けなかったなあ。


庄司:「山頂まであと2キロ」という看板があるんですけど、キツくて「わかってるわ!」と心の中で叫んでいました。


土門:最後の坂も超キツい。


吉宮:ゴールすると今度はその坂を50mダッシュしたりして。


黒坂:金峰山は知り尽くしているのでガイドできますよ(笑)。

長い通学時間にも負けず練習に取り組んだ中沢一斗。

攻撃的野球を目指した坂元監督
佐藤俊監督にも影響が

————坂元監督はどんな野球を目指していたのですか?


的場:打ち勝つ野球。バッティング大好きだったよね。


中沢:一番バッターに一番いい打者を置く。


土門:試合開始のサイレンが……


一同:鳴り終わったときには二塁にいる!(笑)


庄司:打撃に関する坂元先生の目は本当に鋭い。選手のバッティングを見た瞬間に長所・短所を判断して、それがまた当たっているからぐうの音も出ない。


黒坂:自分は入学直後、室内練習場でバッティングしていたら「黒坂ー!お前は左や!」と転向を命じられました。


庄司:あと「ステップ、スイング」ね。体の軸を意識するのと打撃にリズムをつける言葉。


黒坂:「体が小さくてもホームランは打てるぞ!」と励まされたり。


吉宮:自分は「ステップ、スイング」を意識することで、右打者なら右方向への打球が伸びるようになる印象だった。


的場:自分たちにもっと基本知識、基本技術があって、しっかりしていたら坂元監督の指導をもっと活かすことができた気がする。今の選手たちと比べると、自分たちは甲子園に対しての意識も低かった。キツいときはいかにサボるか考えてしまうこともあったし。


黒坂:今、思うと坂元先生は九州でやってきた指導と同じようにはいかない、と感じていたかもしれない。


庄司:それでも、遠征で全国レベルの相手と試合をするとなっても「同じ高校生や!」と勇気づけてくれた。「野球はハート」という言葉がとても印象に残っています。


中沢:「練習はウソをつかない」も。


庄司:「勝つために何でも取り組んでみる」という感じ。


————技術ではかなわなくても、気持ちでは負けるな。坂元監督は、這い上がるためにまず必要なことをみんなに伝えようとしたのかもしれませんね。


庄司:3年生になると「2年生は心を学べ、3年生は技術を学べ」とよく言われていました。自分たちはヘタだったのかもしれないけど、心の成長を認めてくれたのであればうれしい。


中沢:自分たちが今の選手たちくらいのレベルや意識だったら、坂元先生はもっと勝てたと思う。みんな打撃技術も高いし熱心。坂元先生に質問攻めをして、監督もそれに応える、みたいな。坂元先生は教えるのが大好きだから。


清野:打てない選手に「引きつけて打つ」ことを体感させるためにバスター打法を命じたこともあったよね。昨年の夏の甲子園(2019年)で竹花君(竹花裕人・52期)のバッティングフォームを見ていたら思い出してしまった。

坂元監督の指導をよく記憶していた清野勉。


————現在の佐藤俊監督も「練習はウソをつかない」という言葉をよく口にしますし、「勝つために何でも取り組んでみる」という姿勢も感じられます。当時、佐藤監督は坂元監督のもとで部長を務めていましたが、影響を受けた点も多いのかもしれませんね。


庄司:そうですね。左投手を好んで起用する点も似ている気がします。自分も左投手でしたが、坂元先生には「庄司! 打者は右より左の方が5キロ増しに感じるんや!」と言われていました。


中沢:当時、俊先生はチームの裏方的なことを全て担当していたから、それもチームを率いるうえで役立っているのかも。


庄司:人を見える目が尋常でない点も、坂元先生と俊先生は似ている。とにかく自分たちの時代は、毎日が「男の修行」のような日々。甘い練習をしていると「じゃあ帰れば」と突き放される厳しさがあった。そんな日々で培われたハートの強さが、今の鶴岡東野球部の長所にもつながっているのであれば、「坂元世代」としてはうれしいですね。

まとまりのよい33期。入部から引退まで、同期12人全員が高校野球を全うした。

毎日、グラウンドで真剣勝負をしていた「坂元世代」の選手たち。甲子園には手が届かなくても、そんな姿勢で野球に取り組んでいたからこそ、そのハートは佐藤俊監督の時代へと引き継がれていったのだろう。33期は寮で選手の面倒をみている的場や、息子も佐藤監督の教えを受けた黒坂など、今も鶴岡東野球部との関係が濃いOBが目立つ。それもまた〝ハート〟を鍛えられた成果なのかもしれない。