第44期(2011年/平成23年度)
太田海斗 萩原悠右
茂木直矢 横内聡太
30年もの長いブランクを打破して甲子園に出場したのが2011年夏。前年、山形中央に決勝で敗れた試合の雪辱を果たした選手たちだった。戦力だけ見れば前年が上という評価もあった彼らが聖地にたどりついた要因は何か? 当時の3年生、大阪出身の萩原、横内と鶴岡出身の太田、茂木の4人が振り返ってくれた。
チームを大きく変えた
春季県大会の初戦敗退
——当時は甲子園から長い期間、遠ざかっていた時代。甲子園はどれくらい現実感のある目標だった?
横内:入学時は「行けたらいいな」くらいの気持ちでしたね。たぶん、今の選手は違うだろうけど。
萩原:でも、入学したら想像よりもレベルが高かった。練習の内容もバリエーションに富んでいて。
茂木:ちっちゃいグラブで捕球の練習したりね。
太田:投手陣も全然、レベルが違いました。
茂木:1コ上の先輩は絶対、甲子園に行くと思った。
——ところが、その先輩たちが決勝敗退。新チームはどんな感じで始まったのでしょう。
茂木:最低限、先輩たちのレベルにならないと甲子園は狙えないと思っていました。
太田:逆にあの先輩たちでも甲子園に行けないのか、と不安にもなった。
萩原:とりあえず、秋の大会で山形中央に勝たなくてはいけない、と。実は自分たち、1年生大会で山形中央に負けているんですよ。そこから山形中央戦の連敗が始まったので、個人的には「自分たちが断ち切らないと」という思いが強かった。
——そして秋季県大会で山形中央にいきなり勝利。
萩原:そうなんですけど……なんかフワフワしていましたよ。あの試合、山形中央にサヨナラ本塁打を浴びたと思ったら、打者が走者を追い越して。アピールしたらアウトになって勝てた。だから勝ったけど、本当は負けていたというか。
茂木:なんかモヤモヤした勝利。
萩原:東北大会も大敗して、結局そのまま時間が流れ、春季県大会も鶴岡工に初戦敗退しちゃった感じ。
——では、なぜ甲子園出場するまでにチームは成長したのでしょう?
横内:やっぱり春に負けてからじゃないですか。
萩原:自分と主将の遠田(遠田真也・44期)で話し合い、監督(佐藤監督)に自分たちでチームミーティングをする時間がほしいと直談判したんです。そこで全員に今のチームのいいところ悪いところを書き出してもらって。そしたら横内が『お前ら本音を書いてないだろ!』と言い出したんですよ。
横内:ああ、言ったかもなあ。自分は記録員で裏方の立場だったから、いろいろと内情を聞いていたんですよ。それを思い出したんでしょうね。
太田:まあ、春は地区予選からヤバい感じだったし。
萩原:それ、みんな感じていたよ。
横内:どうなるんだって。
茂木:死を覚悟したもん。
太田:いつ?(笑)
茂木:鶴工に負けたとき。あり得ないって。
横内:それで夏は本気でがんばらないとマズいってなった。
萩原:別のチームみたいだったもんね。
横内:だから負けてよかったんだよ、あの時。
萩原:僕ら、準備とか、いろいろ遅かったんですよ。それでストップウォッチで計り始めたりして。
太田:チーム全体の意識として、遅いところを早くしようとなった。それでダラダラ感をなくそうと。
「仲の良さ」が生んだ
試合での落ち着きと信頼
——話を聞いていると、みんなちょっとおっとりしている印象です。
横内:そうかもしれませんね。
萩原:仲がよくて雰囲気はいいんですけどね。
——もともと、まとまりはいいから意識が変われば、と。
萩原:実力的には強いとも思われてなかったし、自分たちも強いと思っていなかった。だけど「あとはやるだけ」みたいな姿勢にはなっていましたね。
太田:確かに「相手は関係ない、自分たちの野球をするだけ」みたいな感じだったな。
横内:ただ、春の敗戦と1年前の夏の決勝敗退はしっかり頭に残っていたから、それもよかったのでしょう。運もあったしね。
——運?
横内:準決勝の日大山形戦、6対5で勝ったのですが、走者三塁の場面でスクイズを仕掛けられたんです。でもそこで亮太(佐藤亮太・44期)のボールが奇跡的にワンバウンドになって走者がアウト。ここで点をとられたら負ける予感がしたからホッとしました。
——そして決勝は山形中央。
茂木:個人的には羽黒が来たら嫌だったな。山形中央は何回も対戦しているから慣れているというか。
萩原:一応、秋に勝っているしね。逆に羽黒は相性があんまりよくなかった。
横内:羽黒、強そうだったよな。まあ、山形中央もやりづらさはあるはあるんだけど。
茂木:ただ、決勝戦の最終回、先頭打者の難しいサードゴロをアウトにした時、「勝った!」と思ったんだよね。ちょっとファインプレーっぽかったから球場が「ワーッ!」となって。「あ、これきたな!」みたいな。
——みんな落ち着いていますね。
萩原:甲子園でも落ち着いていたもんね。浮き足立つこともなく、伝令が来ても各々が関係ないことしゃべっていたり。
横内:僕、記録員でしたけど、見ていて不安を感じなかったですもん。
茂木:仲がいいから落ち着いて見ていられるんじゃないかな。いつも通りだなって。
——仲の良さは大きな武器だったのかもしれませんね。それにしても、なんでそんなに仲が良かったのでしょう?
横内:なんでだろ?
萩原:うーん、確信的なものはないなあ。
横内:ヤンキーみたいなヤツとか自己中なヤツがいなかったからじゃない?(笑)
——なるほど。東北のチームでは、のんびりしている地元出身の選手が負けん気の強い大阪から進学してくる選手の勢いに最初、圧倒される、みたいな話もよく聞きますが、そんな感じではなさそうですね。
萩原:全然、違いますよ。
横内:ちゃうな。
茂木:オレらの代はそういうの、全くなかったな。関西からきた選手、みんな気さくだったし。
萩原:中学のボーイズもそんな強くなかったし、自分たちはしょぼい、みたいな意識もあったからかな。
横内:まあ、みんな仲良くできたらええかな、って。だからまとまりはよかったと思いますよ。
「勝って兜の緒を締めよ」
優勝したのに怒られる
——佐藤監督の印象は?
横内:厳しい。でも教え方は上手だなと思っていました。
萩原:戦術とか引き出しが多くて、なんでそんなトリックプレーを思いつくのかなって驚いていました。
太田:カンがすごいんですよ。一言でプレーが変わったりする。自分、調子が悪くて球速が上がらない時期に、足の位置のことをポソっと言われて。そしたらすぐによくなった。自分では何が変わったかよくわからないんですけどね。監督さんの一言は大きいです。
茂木:いろいろな考えがある、みたいな印象が強いですね。
——当時はあと一歩で甲子園に届かない時期でしたが、監督からそのジレンマなどは感じましたか?
横内:あまりそういったところは見せないですよね。
萩原:甲子園、甲子園って言わないタイプだと思います。
横内:でも引退後に「甲子園、楽しかったわ。ありがとう」って言われたな。それはうれしかった。いい思い出です。
太田:でも監督と選手の関係のときはあまりそういうこと言わないよね。優勝して甲子園を決めた時も怒られたもん。「なんでお前らそんなに喜んでいるんだ」って。
萩原:ああ、あったね。「お前ら去年それをやられて悔しかったんだろ? 同じことをするのか」って。本当は監督もうれしかったと思うんだけど、それを抑えて相手への敬意を示す。そういう学びは今、役立っているよ。
茂木:大学の野球部でも何も困らなかった。高校時代に培った経験が生きたと思う。
太田:染みついているよね。挨拶とか、目上の人とのコミュニケーションとか。
——では最後に鶴岡東の野球を一言で表現してください。
萩原:「全員野球」。控えもOBも全員で選手を応援しているイメージ。それに応えようと選手もがんばる。
太田:選手時代は先輩やOBのみなさんの声援の温かみは本当に感じられました。
茂木:だから一言で表すならば、やっぱり「全員野球」かな。
横内:アットホームですよね。厳しいけど愛情が感じられて、その先の未来も見える。鶴岡東の野球部で3年間、やり遂げられれば真っ当に生きていけるようになると思いますよ。
座談会を終えて印象深かったのは、彼ら自身が勝因として挙げたのが「仲の良さ」だったこと。激しさよりも穏やかな空気をまとう4人。それを見て「あっ」と思った。どこか「下級生たちにのびのびプレーしてもらおう」と心がけていた、1978年、甲子園初出場を果たした3年生たちに雰囲気が似ているのだ。「壁」を破るのは、能力よりも、案外、こうした空気が大事なのかもしれない。そんなことを感じた座談会であった。